1789年5月、財政危機を打開すべく約175年ぶりに招集された三部会は、第三身分(平民)の反発によって決裂。同年7月14日のバスティーユ襲撃を皮切りに、フランス革命の炎は一気に燃え広がりました。同年10月には飢餓に苦しむパリの女性たちがヴェルサイユへ行進し、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ強制連行されて事実上の軟禁状態に置かれます。
温厚で優柔不断、流血を極端に嫌った国王ルイ16世に対し、母マリア・テレジア譲りの気骨を持つマリー・アントワネットは、王権神授説への誇りを捨てきれず、妥協を拒んで強硬姿勢を崩しませんでした。これがフランス革命における王妃の政治的立場を決定づけ、王家を破滅へと加速させる要因となります。
フェルセン伯爵との禁断の愛と運命の逃亡劇
八方塞がりの王妃が唯一絶対の信頼を寄せた人物が、スウェーデン貴族のハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵でした。近年、フランス文化財修復保存研究センター(CRC)が行った最新の蛍光X線分光分析によって、黒塗りで塗りつぶされていた手紙の文面から「狂おしいほどにあなたを愛している」といった熱烈な愛の交歓が科学的に解読され、2人が単なる友情を超えた深い魂の絆で結ばれていたことが決定づけられました。
フェルセンは私財を投じ、軟禁下にあった国王一家をオーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)へ脱出させる「ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月20日〜21日)」を首謀・計画します。しかし、この脱出作戦はあまりにも杜撰な判断の連続によって無残な失敗へと終わりました。
【ヴァレンヌ逃亡事件の致命的な失敗要因】
- 豪華で鈍重な特注大型馬車(ベルリーヌ馬車):身軽な移動を拒み、銀食器や衣類を満載した巨大な馬車を採用したため、通常の半分のスピードしか出せなかった。
- 深刻なタイムスケジュールの遅延:出発の遅れや度重なる休憩により、護衛の騎兵部隊との合流地点に数時間単位で遅刻。警戒部隊は計画中止と誤認して撤収してしまった。
- 国王一家の致命的な油断:途中の宿駅サント=ムヌーで、国王ルイ16世が馬車の窓から顔を出したところ、紙幣(アシニャ)の肖像画と見比べた宿駅長ジャン=バティスト・ドルーエに正体を看破された。
国境手前の小村ヴァレンヌで拘束された一家は、武装した群衆に囲まれ、罵声を浴びせられながらパリへと連れ戻されました。この事件により、国民が国王夫妻に対して抱いていたわずかな敬愛の情は完全に消滅。「国王一家は国民を見捨て、外国軍を引き連れて自国民を虐殺しようとした裏切り者」という烙印が決定的に刻印されたのです。