日本における一夫多妻制の歴史を紐解くと、かつての支配層において妾は隠すべき後ろめたい存在ではなく、家制度を存続させるための公的な装置として機能していました。
古代の律令制度では「妻妾制」が明文化され、正妻(嫡妻)と妾の間には厳格な身分の格差が設けられていました。中世から近世の武家社会における側室と妾の違いは、公的な認知度にあります。大名家や将軍家の側室は、血統の断絶を防ぐ「お世継ぎ生産」という重責を担う準公務的な身分であり、奥向きの規律の中で一定の格式を与えられていました。
驚くべきは、近代化を推し進めた明治初期の法制です。1870年(明治3年)に制定された刑法典『新律綱領』において、明治民法前夜の妾の地位はなんと「本妻と同等の二親等」と法制化されました。つまり、国家が妾を正式な親族として戸籍に登録することを認めていたのです。
しかし、欧米列強から「野蛮な前近代国家」と批判を浴びた日本政府は方針を転換します。1880年(明治13年)の旧刑法制定で妾の身分特権を削り、1898年(明治31年)に施行された明治民法によって、晴れて法律上の一夫一婦制が確立されました。法的な後ろ盾を失った妾は、やがて制度の外側にある「愛人」や「囲い者」へと変質していくことになります。