「世界史やフランス史の知識がまったくないと楽しめないのではないか」という懸念は、佐藤賢一の作品に触れる前の読者が抱きがちな最大の誤解です。
実際のところ、佐藤賢一の筆致は読者に前提知識を一切要求しません。物語に必要な当時の社会通念、政治的背景、宗教的対立の図式は、登場人物たちの会話や心理描写の中に自然な形で織り込まれています。むしろ、予備知識が何もない状態で読んだ方が、「中世ヨーロッパの司法とはこんなに論理的で狡猾だったのか」「フランス革命は単なる理想主義ではなく、こんなにも激しい派閥抗争だったのか」という純粋な知的驚きを味わうことができます。
日本の時代小説で描かれる戦国武将や幕末の志士たちの葛藤と同様に、佐藤賢一が描いているのは「極限状態に置かれた人間の普遍的な選択」です。舞台がヨーロッパであるという先入観だけで敬遠してしまうのは、極めてもったいない読書体験の損失と言えます。