長宗我部元親はなぜ四国覇者に?「姫若子」の変貌と子孫の現在を徹底解説

長宗我部元親はなぜ四国覇者に?「姫若子」の変貌と子孫の現在を徹底解説

長宗我部元親はなぜ四国覇者に?「姫若子」の変貌と子孫の現在を徹底解説とはどんな影響があるのか? 主要なファクトを整理してお届けします。

豊臣政権下に入った元親を、生涯最大の悲劇が襲います。天正14年(1586年)、秀吉の命による九州征伐の先陣として出陣した「戸次川(へつぎがわ)の戦い」です。この戦いで豊臣軍の軍監・仙石秀久は、現地の状況を無視して島津軍への無謀な強行渡河作戦を命じました。

元親や十河存保は島津の得意戦法「釣り野伏せ(偽装退却からの伏兵包囲)」を警戒して強硬に反対したものの、秀久は聞き入れずに突撃を敢行。結果として豊臣軍は島津の罠に完全に嵌まり、壊滅的な敗北を喫しました。

この大乱戦の最中、元親が後継者として心血を注いで育て上げた最愛の長男、長宗我部信親(のぶちか)が22歳の若さで壮絶な討死を遂げます。信親は文武両道で家臣からの信望も厚く、秀吉からも絶賛されていた逸材でした。その死の理由は、無能な指揮官による無謀な突撃命令と、自軍が総崩れとなる中で退却する父を逃がすため殿軍(しんがり)を務めた自己犠牲にありました。

信親を失ったショックは元親の精神を完全に破壊しました。かつての明晰な英主は影を潜め、家中の後継者争いにおいて諫言する親族や忠臣を次々と処刑・幽閉するなど、元親の晩年は苛烈な粛清に染まっていきます。慶長4年(1599年)、傷心を抱えたまま伏見屋敷にて61歳で病没(死因は病気とされますが、愛息を失った心労による衰弱が大きかったと伝わります)。土佐の英雄の幕引きは、哀愁に満ちたものでした。

吉田 誠
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吉田 誠

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