悲劇の舞台となったのは、丹沢湖に注ぎ込む玄倉川の中州でした。1999年8月13日、横浜市内の産業廃棄物処理会社に勤務する男性社員、その家族、友人ら計25名がキャンプを目的に現地を訪れました。折しも前日から熱帯低気圧(のちに台風10号へ発達)が接近しており、気象庁は大雨洪水注意報を発令していました。
神奈川県企業庁の玄倉ダム管理事務所職員は、ダムの放水予告を伝えるため午後から計4回以上にわたり中州へ出向き、直接メガホンで退避を指示しました。しかし、一行は「大丈夫だ」「見せ物じゃない」「放っておいてくれ」と警告を一蹴し、中州にとどまり続けました。さらに夕方には警察官も出動して退避を説得しましたが、これを拒否しています。
夜に入ると降雨は激しさを増し、14日未明には水位が急上昇して中州は孤立しました。早朝、水深が浅いうちに自力で対岸へ渡った一部のメンバーを除く18名(大人・子供・乳幼児)が中州に取り残される事態へと発展します。警察や消防のレスキュー隊が出動し、救助用ロープの投射を試みたものの、激しい濁流と流木、急激な増水によって救助活動は困難を極めました。
そして14日午前11時38分頃、上流の玄倉ダムの水位が限界に達し、越流の危機から放流量が増加。限界を超えた濁流がテントごと中州を完全に押し流しました。濁流に呑まれた18名のうち、対岸に泳ぎ着くなどして救助されたのは大人4名と子供1名の計5名にとどまり、残り13名(大人8名、子供5名)が尊い命を落とすという最悪の結末を迎えました。