1789年に勃発したフランス革命は、ブルボン王朝の運命を根底から覆しました。1792年8月、国王一家はパリのタンプル塔へ幽閉され、翌1793年1月に父ルイ16世がギロチンで処刑されると、王党派は8歳のルイ・シャルルを正統な国王「ルイ17世」として宣言します。しかし、この幼き君主の存在そのものが、革命政府にとっては最も警戒すべき火種でした。
公安委員会が下した決定は、母マリー・アントワネットからの強制的な引き離しでした。1793年7月、泣き叫ぶ王妃の腕から引きずり出された王子は、急進派の監視役である靴職人シモン(アントワーヌ・シモン)に預けられます。シモン夫妻に課された密命は、王太子からブルボン家の誇りを奪い、「善良なサン・キュロット(革命派市民)」へ再教育することでした。酒を無理やり飲まされ、卑俗な革命歌を歌わされ、さらには実母マリー・アントワネットに対する近親相姦の虚偽告発書に無理やり署名させられるという、凄惨な心理的・肉体的虐待が繰り返されました。
1794年1月にシモンが監視役を辞任すると、事態はさらに悪化します。革命政府は王子の存在を世間から完全に遮断するため、タンプル塔の一室に彼を幽閉し、食事の受け渡し口以外を固く閉ざしました。清掃も入浴も許されない不衛生極まりない暗闇のなか、窓を塞がれた密室で少年は急速に衰弱していきます。
1795年6月8日午後2時15分、ルイ・シャルルはわずか10歳2カ月の生涯を閉じました。翌6月9日に行われた病理解剖において、ルイ17世の死因は公式に結核性腹膜炎(全身性結核に伴う腹膜および腸間膜の重篤な炎症)と断定されました。検死報告書には「全身が著しく削痩し、膝や肘の関節にはくる病性の腫脹が見られ、腹部には広範な結核性病変が広がっていた」と克明に記録されています。過酷な幽閉環境が結核菌の増殖と悪化を決定づけたことは明白であり、事実上の衰弱死・ネグレクトによる獄中死でした。