かつての歴史評価において、聖武天皇は「疫病や反乱に怯えて都を放浪し、財政を破綻させて仏教に逃避した脆弱な君主」と見なされる傾向がありました。しかし、2020年代以降の歴史学や考古学の知見は、このステレオタイプな暗君像を明確に退けています。
誤解1:「仏教への盲信で財政を破綻させた」という言説
大仏や国分寺の建立が国家財政に極めて重い負荷を与えたことは事実ですが、当時の仏教は単なる「個人の信仰」ではなく、東アジア世界における最先端の「統治テクノロジー」であり「国際標準法」でした。中国の唐や新羅も仏教による国家鎮護を推進しており、聖武天皇は当時のグローバルスタンダードに基づき、法と宗教を統合した統治インフラを日本列島に定着させようと試みたのです。最新の出土木簡の分析でも、財政支出は極めて緻密な計算と官僚機構の統括下で管理されていたことが判明しています。
誤解2:「遷都を繰り返したのは精神衰弱による逃避行だった」という見解
恭仁京の造営、難波京の整備、紫香楽宮での大仏鋳造計画など、一連の都市建設は極めて周到な土木計画に基づいていました。恭仁京では条坊制が敷かれ、紫香楽宮では広大な宮殿と寺院が整然と設計されていました。単なるパニックによる逃走であれば、これほど高度な都市計画を短期間で複数箇所に同時展開することは不可能です。旧態依然とした平城京貴族のサボタージュに対抗し、国家体制をリブート(再起動)しようとした指導者の強固な政治的意志がそこにはありました。