慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を経て豊臣家を滅ぼした徳川家康は、元和2年(1616年)4月17日、駿府城(現在の静岡市葵区)において75年の生涯を閉じました。江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』や本多正純ら側近の日記によると、家康は死の直前に明確な遺言を遺しています。
「遺骸は久能山に納め、御葬礼は江戸の増上寺にて営み、一周忌が過ぎてから日光山に小堂を建てて勧請せよ。関八州の鎮守とならん」
なぜ家康は、自らが拓いた巨大都市・江戸でも、生まれ故郷の三河でもなく、駿府の険峻な小山である久能山に自らを埋葬するよう命じたのでしょうか。歴史学者や現地調査の研究者らの分析により、主に3つの決定的理由が浮かび上がっています。
第1に、軍事上の要衝としての地政学的価値です。久能山は元々、戦国最強と謳われた武田信玄が駿河湾と東海道を掌握するために築いた山城「久能城」の跡地でした。南面は切り立った断崖絶壁で海に面し、北面も深い谷に囲まれた天然の要塞です。隠居城として駿府城を選んだ家康にとって、久能山は背後を守る最強の詰城(最後の防衛拠点)でした。
第2に、西国大名に対する心理的・軍事的結界です。家康の神廟(墓所)は、駿府から西(京都・大坂方面)を真っ直ぐ見据えるように西向きに建てられています。豊臣恩顧の西国大名がいまだ不穏な動きを見せる可能性を警戒し、「死してなお西に睨みを利かせ、国家の安寧を守る」という強い執念が込められていました。
第3に、太陽信仰と風水思想の合致です。久能山は富士山を頂点とするレイライン上に位置し、久能山から見て富士山は真北にそびえます。不滅の象徴である霊峰・富士のエネルギーを背負い、神仏習合の思想に基づいて自らを「東照大権現」として神格化するための理想郷が、まさにこの久能の山だったのです。