チェッカーズはなぜ、絶頂期にピリオドを打ち、泥沼と称される対立へと突き進んでしまったのでしょうか。その根底には、単なるメンバー間の感情のすれ違いだけではなく、芸能ビジネスの構造的問題と、地元・福岡県久留米市の幼馴染集団が背負った過酷な力学が存在していました。
アイドル路線からの脱却と「作詞作曲」を巡る印税格差
チェッカーズは、芹澤廣明氏と売野雅勇氏のコンビが手掛けた『涙のリクエスト』『ギザギザハートの子守唄』などの大ヒットにより、一躍社会現象となりました。しかし、メンバーの本質は「自分たちの音楽を演奏したい」という生粋のロックバンドでした。1986年の『NANA』以降、念願であったオリジナル楽曲中心の活動へと舵を切りますが、皮肉にもこれがグループ内に決定的な経済格差を生む引き金となります。
オリジナル化に伴い、リードボーカルの藤井フミヤ氏が主に作詞を、サックスの藤井尚之氏や鶴久政治氏、大土井裕二氏らが作曲を手掛ける体制が定着しました。日本の音楽著作権ビジネスにおいて、莫大な印税収入が入るのは作詞家と作曲家です。楽器を担当しないサイドボーカルであり、制作面での関与が限定的だった高杢禎彦氏らとの間に、年間数千万円から数億円に及ぶ収入格差が生じたことは、報道関係者や音楽評論家の間でも公然の事実として語られています。
2003年の激震:高杢禎彦による暴露本『チェッカーズ』の出版
解散から11年が経過した2003年、高杢氏が執筆した自著『チェッカーズ』(新潮社)が発売され、世間に大きな衝撃を与えました。同書の中で高杢氏は、バンド解散の主因がフミヤ氏の「脱退表明」とワンマン体制にあったと厳しく批判。フミヤ氏が事務所独立やバンドの主導権を巡って他のメンバーを翻弄したとする生々しい内情が暴露されました。
この暴露本はベストセラーとなったものの、ファンの夢を根底から打ち砕き、メンバー間の感情的亀裂を決定的なものにしました。武内享氏をはじめとする楽器陣はブログ等で不快感や異論を表明。フミヤ氏自身も当時、報道陣の直撃に対して具体的な反論合戦を避けつつも、「悲しい」「墓場まで持っていくつもりだった約束を破られた」という趣旨の落胆を滲ませ、両者の修復は不可能な領域へと達しました。
決定打となった2004年「クロベエを送る会」発起人排除騒動
暴露本の傷が癒えない翌2004年8月17日、ドラムの徳永善也氏が舌がんのため40歳の若さで亡くなるという悲劇が起きます。バンドの誰もが愛した温厚な男の死は、本来であれば再結びつきのきっかけになるはずでした。しかし、現実はより凄惨な分断を露呈させる結果となります。
徳永氏のお別れの会(送る会)が執り行われる際、発起人名簿に名を連ねたのは藤井フミヤ、藤井尚之、武内享、大土井裕二の4人のみでした。高杢氏と鶴久氏は発起人から除外され、一般参列者と同じ扱いとなったのです。この事態に対し、高杢氏は会場付近で緊急の記者会見を開き、フミヤ氏側の対応を痛烈に批判。「死人に口なしだ」「善也が一番悲しんでいる」と涙ながらに憤りをぶちまけました。
一方のフミヤ氏側も会見を行い、徳永氏の遺族の意向を尊重したこと、そして前年の暴露本出版によって信頼関係が完全に破綻しており、「とても一緒に並んで発起人を務められる精神状態ではなかった」と苦渋の決断であったことを明かしました。この葬儀を巡る公開の対立劇によって、チェッカーズの絆は社会的に完全消滅したと認識されるに至ったのです。