軍事作戦上の冷徹な計算の一方で、地上で暮らしていた一般市民にとって「午前8時15分」という時刻は、これ以上ない過酷な惨劇をもたらしました。
広島平和記念資料館に足を踏み入れると、ひときわ強い印象を残す展示物があります。激しい熱線によって黒焦げになり、短針が8、長針が3の直前を指したまま動かなくなった腕時計や懐中時計の数々です。爆心地からわずか数百メートルの地点で発見されたこれらの時計は、何千度という熱線と秒速数百メートルの爆風によって、市民の日常がその瞬間に断絶した事実を雄弁に物語っています。
手記や証言記録を詳細に分析すると、午前8時15分という朝の時間帯が被害を極大化させた要因が浮き彫りになります。当時、広島市内では米軍による空襲に備え、火災の延焼を防ぐための「建物疎開(家屋の解体作業)」が大規模に行われていました。この作業に駆り出されていたのが、国民学校高等科や旧制中学校、高等女学校の学徒たち、いわゆる「動員学徒」でした。
当時の生存者の手記には、次のような壮絶な証言が残されています。
「朝礼が終わり、まさに作業現場でスコップを手にした瞬間、視界のすべてが青白いマグネシウムを焚いたような強烈な閃光で満たされた。熱いという感覚すらなく、次の瞬間には吹き飛ばされ、瓦礫の下に埋もれていた。這い出した周囲は真っ暗で、炎と煤煙の中、皮膚を垂らした人々が呻き声をあげていた」
屋外で作業に従事していた学徒や女子挺身隊、通勤途中の市民は、遮蔽物のない無防備な状態で直射熱線を浴びました。爆心地付近では地表面の温度が3,000〜4,000度に達し、人体の水分は瞬時に蒸発。衣服は焼き払われ、皮膚は焼けただれて垂れ下がるという凄惨な状態が生み出されました。旧広島県産業奨励館(現在の広島原爆ドーム)周辺にいた人々は、ほぼ全員が即死または数日以内に命を落としました。