凌遅刑の真実|中国史上最凶の処刑法が生まれた理由と廃止の全貌

凌遅刑の真実|中国史上最凶の処刑法が生まれた理由と廃止の全貌

凌遅刑の真実|中国史上最凶の処刑法が生まれた理由と廃止の全貌の基本情報から最新動向までを徹底的にカバーしました。

凌遅刑の実態を後世に伝える上で、避けて通れないのが明代に記録された2つの象徴的な事件、そして19世紀末から20世紀初頭にかけて西洋人によって撮影された写真資料です。

明代を震撼させた2大処刑記録:劉瑾と袁崇煥

明代の正徳5年(1510年)、権勢を極め「立ちながらの皇帝」とまで恐れられた宦官の劉瑾(りゅうきん)は、謀反の罪で逮捕され、凌遅刑を言い渡されました。当時の官僚・張文麟が残した記録手記によると、劉瑾に下された判決は「3日間で3,357刀」という前代未聞の回数でした。執行初日、罪人は柱に縛り付けられ、胸部から肉を少しずつ切り取られていきました。初日に300刀余りを削ぎ落とされた後、劉瑾は収監場所に戻されて粥をすする余力があったと記録されていますが、翌日の2日目に数十刀を加えられた段階で息絶え、規定の刀数を満たすために死後も遺体の損壊が続けられました。

一方、崇禎3年(1630年)には、明を滅亡から守るため清軍と勇敢に戦った名将・袁崇煥(えんすうかん)が、後金の策略(離間計)に嵌まった崇禎帝によって反逆の濡れ衣を着せられ、北京の西市で凌遅刑に処されました。清代の史料『明季北略』などの記述によれば、集まった北京の民衆は袁崇煥を売国奴と信じ込み、執行官が削ぎ落とした肉片を我先にと買い求め、酒と共に呑み下したという狂乱の光景が伝えられています。国家の忠臣が、歪められた情報と集団心理によって最悪の刑に処されたこの事件は、明朝崩壊の決定的な道義的失墜を象徴する悲劇となりました。

清朝末期の写真記録と西洋社会への衝撃

1900年の義和団の乱以降、北京には多くの西洋軍人、外交官、写真家が駐留していました。彼らは北京の菜市口(処刑場)などで執行される凌遅刑をカメラに収めました。フランス軍兵士らが1904年から1905年にかけて撮影した写真には、木製の十字架や支柱に縛り付けられた罪人(蒙古出身の康小八や、王維勤殺害犯の符珠哩など)と、それを取り囲む執行官、そして冷淡にそれを見つめる無数の野次馬の姿が鮮明に記録されています。

これらの写真は絵葉書などとして西洋に持ち帰られ、20世紀の思想家ジョルジュ・バタイユが著書『エロスの涙』で取り上げたことでも世界的に知られるようになりました。西洋人にとって、文明社会では想像を絶する白昼の肉体解体ショーは「東洋の残虐性・野蛮性」の決定的な証拠として映り、清朝に対する強烈な外交的・道義的圧力となっていったのです。

森 瞳
著者

森 瞳

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