菱垣廻船と樽廻船の決定的な違いとは?物流戦争の真相とスピード対決

菱垣廻船と樽廻船の決定的な違いとは?物流戦争の真相とスピード対決

菱垣廻船と樽廻船の決定的な違いとは?物流戦争の真相とスピード対決について知っておくべき 注意点を分かりやすい構成で解説いたします。

両船が航行した大坂から江戸への海上ルートは「南海路(なんかいろ)」と呼ばれ、日本屈指の海の難所を抱える航路でした。大坂安治川河口を出帆した船は、紀伊水道を抜けて潮岬を回り、熊野灘、遠州灘、そして伊豆半島の下田を経て江戸湾へと入ります。

とりわけ船乗りたちに恐れられたのが「遠州灘(えんしゅうなだ)」です。強い季節風と荒波が吹き荒れ、一度船が流されれば房総半島沖から黒潮に乗って太平洋の孤島へと漂流するリスクが常に隣り合わせでした。当時の船長である船頭(せんどう)や水主(かこ)たちの航海日記や手記には、「波浪猛烈にして帆柱を切り倒し、金毘羅大権現に命乞いをした」といった凄惨な記述が幾度となく登場します。

その過酷な南海路を舞台に、江戸庶民を熱狂させた一大イベントが「新酒番船(しんしゅばんせん)」でした。

秋に仕込まれたその年の新酒を大坂から江戸へ一番乗りで届けた船には、莫大な祝儀が出るだけでなく、その船が運んだ酒樽には江戸市場で最高値のプレミアがつきました。現代でいう「ボジョレー・ヌーボー」の初荷競争を遥かに凌ぐ国家的熱狂です。毎年11月、西宮や今津の港から数十隻の精鋭樽廻船が一斉にアンカーを上げ、大坂湾から江戸へと命がけのタイムレースを繰り広げました。

通常の廻船が1週間以上かけるところを、新酒番船のトップ船は不眠不休で帆を操り、わずか50時間前後(約2昼夜強)で江戸の浦賀に滑り込みました。このレースで勝利することは、船頭にとって一生の栄誉であり、同時に樽廻船の卓越した造船技術と航海術を天下に見せつける格好のプロモーションでもあったのです。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。