真田氏が独自に六文銭を考案したという認識は、歴史的事実とは異なります。真田氏の出自は、信濃国(現在の長野県東部)の小県郡を本拠とした古代以来の名門・滋野(しげの)氏の嫡流である海野(うんの)氏に遡ります。鎌倉時代から室町時代にかけて、海野一族は丸を縦横に3つずつ並べた「六連銭(ろくれんせん)」を家紋として代々使用していました。
滋野一族の系譜を引く真田幸隆(信繁の祖父)は、戦国大名・武田信玄に仕えて頭角を現し、武田二十四将の一人に数えられる武功を立てました。この幸隆から家督を継いだ真田昌幸(信繁の父)の代に、海野氏の伝統的権威を継承する証として、六連銭が真田の旗印として本格的に定着します。平安末期から南北朝時代の記録『保元物語』や各地の寺社奉納文に見られるように、六連銭はもともと家格の高さを誇る格式ある紋章でした。
室町時代後期から戦国時代に入ると、中国(明)から輸入された「永楽通宝」などの銅銭が日本国内で広く流通し、経済の貨幣化が進みました。この時代背景を受け、単なる幾何学的な「丸6つ」のデザインであった六連銭は、中央に四角い穴の空いたリアルな通貨「六文銭」として視覚的に再定義されていきます。知略に長けた真田昌幸は、武田家滅亡後に織田・北条・上杉・徳川といった巨大勢力に四方を囲まれるなか、一族の結束を固め、敵軍に舐められない武威の象徴としてこの六文銭を誇示し続けたのです。