耳馴染みのある「山のあなたの空遠く」というフレーズですが、その正式な題名は「山のあなた」です。この作品の原作者は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したドイツの詩人・作家であるカール・ブッセ(Carl Hermann Busse, 1872–1918)です。そして、このドイツ詩を日本人の心に染み入る不朽の名訳へと仕上げたのが、東京帝国大学で英文学を修め、京都帝国大学教授などを歴任した詩人・翻訳家の上田敏(うえだ びん, 1874–1916)でした。
上田敏が1905年(明治38年)に本郷書院から刊行した訳詩集『海潮音(かいちょうおん)』は、日本の近代文学界に計り知れない衝撃を与えました。ポール・ヴェルレーヌをはじめとするフランス象徴詩の紹介が中心として知られる同書の中で、ひときわ素朴かつ哀切な叙情を湛えていたのが、カール・ブッセの詩「山のあなた」でした。まずはその全文を、初出当時の雰囲気を残す歴史的仮名遣いで振り返ってみましょう。
詩「山のあなた」(上田敏 訳)
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
語句の基本事項として、「あなた」は二人称の「貴方」ではなく、古語の「彼方(かなた)」、つまり「向こう側」を指しています。また、「われひとと」は「私と誰かが連れ立って」、あるいは「世の人々とともに」というニュアンスを含みます。これらを踏まえて現代語に直すと、次のような情景が立ち上がってきます。
【現代語訳】
山の向こうの空遥か遠くに、
「幸せ」というものが住んでいると、人は言う。
ああ、私は人々と連れ立って(あるいは世の噂を信じて一人)それを探し求めて行ったけれど、
目には涙をいっぱいに浮かべ、すごすごと帰ってきたのだった。
それなのに、人々は今もなお言っている。
あの山の向こうの、もっともっと遠い場所にこそ、「幸せ」は住んでいるのだと。
上田敏は漢文の深い素養を持ちながら、西欧の詩情を日本の伝統的な七五調(五七調)のリズムに見事に落とし込みました。このリズミカルな音律こそが、暗誦しやすく、百年以上の風雪に耐えて人々の口の端に上り続ける決定的な要因となったのです。