治療開始から数ヶ月が経過しても抜歯跡の幅に変化が見られない場合、患者の脳裏には「治療が失敗しているのではないか」という疑念がよぎります。しかし、現場の矯正専門医の診察記録を紐解くと、抜歯の隙間が埋まらない理由には明確な医学的根拠が存在します。
代表的な理由は、前述した「歯の傾きを直すトルクコントロール」の段階にあるケースです。前歯が前方に大きく突出している出っ歯(上顎前突)などの症例では、いきなり前歯を後方へ引っ張ると歯の頭(歯冠)だけが内側に倒れ込む「傾斜移動」を起こし、噛み合わせが著しく破綻します。これを防ぐため、歯の根っこ(歯根)から平行に移動させる「歯体移動(ボディーステップ)」を行う必要があり、外見上は数ヶ月間まったく隙間が縮んでいないように錯覚するのです。
装置の種類によるメカニズムの違いも移動体感に大きな影響を与えます。ワイヤー矯正のスペース閉鎖では、太い角ワイヤーをガイドレールにしてスライディングさせる強固な摩擦コントロールが可能な一方、インビザライン抜歯の移動速度はアライナー(マウスピース)のたわみや装着時間への依存度が極めて高くなります。マウスピース矯正で抜歯症例を扱う場合、歯根を骨の中で直立させたまま引っ張る難易度が格段に上がるため、アライナーの浮きや装着時間の不足(1日20〜22時間未満)があると、移動シミュレーション通りに隙間が塞がらず足踏み状態が続いてしまいます。
極めて稀なケースとしては、歯根と周囲の歯槽骨が病的に癒着してしまう「骨性癒着(アンキローシス)」や、舌で前歯を強く押し出す「舌突出癖」の残存によって牽引力と拮抗してしまっている事態も挙げられます。これらはレントゲン診査や筋機能療法(MFT)を併用しなければ突破できません。