前野長康は、大永8年(1528年)、尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町)の土豪・前野宗康の長男として生まれました。通称は将右衛門(しょうえもん)、官位は但馬守です。前野氏は平安時代末期に良忍上人を開祖とする系統や、越後新発田氏の流れを汲む名門と伝えられ、尾張北部に確固たる地盤を持っていました。
長康の人生を決定づけたのは、尾張・美濃の国境地帯で勢力を張っていた土豪ネットワークと、若き日の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)との出会いです。なかでも川並衆の領袖として知られる蜂須賀正勝(小六)とは極めて親密な間柄にありました。正勝の妹を妻に迎えたとも伝えられ、軍事・経済の両面で固い同盟関係を結びます。
永禄9年(1566年)の美濃攻めにおける「墨俣一夜城」の築城伝説では、長康は小六とともに木材の調達や現地工作を担った立役者として描かれます。その後も長康は秀吉の直属部隊として数々の戦場で武功を挙げました。
- 金ヶ崎の退き口(1570年):朝倉攻めの退却戦で殿軍(しんがり)を務める秀吉を命がけで死守。
- 播磨・中国攻め(1577年〜):三木城包囲戦や鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めなど、主要な局面で先鋒や兵站支援を担当。
- 山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い(1582〜1583年):織田家後継争いの天下分け目の合戦で武功を重ね、秀吉の覇権確立に決定的な貢献を果たす。
- 四国征伐・小田原征伐(1585年/1590年):讃岐・阿波の平定や小田原北条氏の包囲戦に従軍し、確固たる軍功を記録。
天正13年(1585年)、これらの功績が評価されて長康は但馬出石城主(約11万石)に封じられました。出石の城下町整備や生野銀山の管理・警護など、軍事のみならず領国統治の手腕も遺憾なく発揮し、名実ともに豊臣政権の中枢を担う大名へと躍進したのです。