ホンダの名を世界に轟かせた名車「スーパーカブ」の誕生には、藤沢の卓越したマーケティング感覚と先見性が決定的な役割を果たしました。宗一郎が技術的なプロトタイプを模索する中、藤沢は明確なコンセプトを提示します。「蕎麦屋の出前持ちが片手で運転でき、スカートを履いた女性でも乗れるバイクを作ってほしい」という要求でした。
1958年に完成したスーパーカブC100を見た藤沢は、「これは売れる。月3万台売ってみせる」と断言します。当時、日本中の二輪車販売台数が月産数千台規模だった時代において、それは常識外れの数字でした。しかし藤沢は構想を行動に移します。
藤沢が仕掛けたのは、既存のバイク販売店に頼らない独自の販売ルート開拓でした。全国の自転車店や米屋、タバコ屋にダイレクトメールを送り、直接取引網を構築。さらに巨額の資金を投じて三重県に鈴鹿製作所を建設し、世界最高水準の大量生産体制を一気に整えました。周囲が倒産を危惧する中、スーパーカブは爆発的な大ヒットを記録し、ホンダの屋台骨を不動のものとしたのです。