歴史ファンの間で長年議論されてきた「豊臣秀長の子孫は現代まで受け継がれているのか?」という問いに対し、歴史的ファクトに基づいた厳密な答えを提示するならば、「武家としての大和豊臣家の直系男系は断絶したが、秀長の実娘を通じた女系血脈は名門武家や公家を経て現代まで脈々と受け継がれている」となります。
一般的に「豊臣家の滅亡」といえば、1615年の大坂夏の陣における豊臣秀頼の自害と、その遺児・国松の処刑によって秀吉の男系直系が完全に途絶えた事象を指します。しかし、秀吉の同母弟(あるいは異父弟とも言われる)である大和中納言・秀長の血統は、全く異なる軌跡を辿りました。
秀長自身の男子は幼少期に相次いで早逝し、後継ぎとして迎えた養子の豊臣秀保も17歳の若さで謎の急死を遂げたため、秀長が築いた「大和豊臣家」という大名組織そのものは文禄4年(1595年)に断絶を余儀なくされました。しかし、秀長の実の娘である菊姫(のちの大膳院)は、毛利元就の孫であり長府藩の初代藩主となる毛利秀元のもとへ正室として嫁いでいます。この婚姻関係こそが、秀長の血脈を後世へと繋ぎ止める決定的な架け橋となりました。