初めて瓢亭の暖簾をくぐる者を驚かせるのが、運ばれてくる薬味皿に鎮座する「生の鶏卵」の存在です。東京の藪や砂場のような濃口醤油の辛汁に慣れた人ほど困惑しますが、この夕霧そば瓢亭の食べ方と生卵の組み合わせにこそ、長年培われた独自の美学が存在します。
基本的な作法は極めて論理的です。まず、添えられた生卵を蕎麦猪口(または専用の器)に割り入れ、白身がしっかりと泡立ち、黄身と完全に一体化するまで箸で手早く溶きほぐします。そこに、熱々徳利に入った濃厚な自家製つゆを好みの量注ぎ込みます。熱いつゆの熱量によって卵がまろやかに乳化し、出汁の角が取れて芳醇なコクが立ち現れます。そこに柚子切り蕎麦の冷たい麺をたっぷりと浸して手繰ると、柚子の香りと卵のまろやかさ、出汁の旨みが三位一体となって口内を満たします。
夕霧そば瓢亭のメニューと値段を俯瞰すると、一般的な大衆蕎麦屋と比較してやや高価格帯に位置付けられます。しかし、職人が柚子の皮を削り、純生粉と合わせる手間暇、そして卵と特製つゆのクオリティを鑑みれば、十分に元が取れる投資と言えます。冷たいそば(冷涼)だけでなく、茹でたての温かい麺を釜揚げ風にすする「温汁」も選べ、冬場には温汁を所望するリピーターが後を絶ちません。