歌舞伎の舞台を初めて観た人が真っ先に抱く疑問が、「なぜ良い場面で急に役者が動きを止めてしまうのか」という点です。舞台芸術において、進行中のアクションを意図的に静止させる手法は世界的に見ても極めて稀有な演出といえます。歌舞伎において役者がピタッと止まる最大の演出効果と理由は、観客の視線を強制的にフォーカスさせる「演劇的クローズアップ」にあります。
現代の映画やテレビドラマであれば、登場人物が怒りに震えたり決意を固めたりした瞬間、カメラがズームして役者の表情を画面いっぱいに映し出します。しかし、望遠レンズも巨大スクリーンも存在しなかった江戸時代の芝居小屋では、数百人から千人を超える観客に対して、役者の感情の昂ぶりを遠くの席までダイレクトに伝える物理的手段がありませんでした。そこで編み出されたのが、「動きを極限まで加速させた直後に完全静止する」という視覚的トリックでした。
人間の目は動くものから急停止したものへ無意識にピントを合わせる習性があります。役者が首を回し、体を大きく開いて静止することで、観客全員の網膜にその瞬間の姿が鮮烈なスナップショットとして刻み込まれます。すなわち、歌舞伎の見栄の意味とは、感情の高まりや物語のクライマックスを視覚的に強調し、劇場全体の空間密度を極限まで高めるための合理的な映像装置だったのです。
なお、一般的には「見栄を切る」と表記されることが多いものの、歌舞伎の世界における正しい専門用語の表記は「見得をする」または「見得を切る」と書きます。自分を良く見せようと虚飾する「見栄」ではなく、芸の真髄・境地を観客に「見せる(見得)」という意味が込められています。