右目を失明したという事実は、思春期から青年期にかけての森田少年の心に少なからず影を落としました。右目の黒目は白濁し、焦点が定まりにくい状態となったため、人目を気にして前髪を長く伸ばしたり、普通の眼鏡で視線を覆うなど、人知れず苦悩を抱えていた時期もありました。 早稲田大学中退後、福岡でのサラリーマン生活や喫茶店マスターを経て、伝説のジャズピアニスト・山下洋輔や漫画家・赤塚不二夫らに見出されて30歳で単身上京したタモリ。芸能界デビュー当初の彼のビジュアルは、現在のようなスタイリッシュなサングラスではなく、海賊のような「黒いアイパッチ(眼帯)」でした。 1975年から1976年にかけて深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』や舞台に登場した際、アイパッチ姿でインチキ外国語や奇怪な芸を披露する姿は、視聴者に鮮烈かつ不気味なインパクトを与えました。しかし、眼帯姿はテレビ画面を通すと生々しい負傷や医療的な痛々しさを感じさせ、お茶の間への刺激が強すぎるという懸念が浮上しました。 そこで、当時の放送作家や赤塚不二夫らと試行錯誤を重ねた結果採用されたのが、黒のサングラスでした。「右目の傷跡や視線のズレを覆い隠す」という実用的な保護目的と、「怪奇性と知性を併せ持つ謎の文化人」という強烈なキャラクター戦略が見事に合致し、昭和のテレビ史に残る不滅のトレードマークが完成したのです。
タモリの右目失明の真相とは?針金事故の経緯とサングラスの理由
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