鎌倉時代の説話集『十訓抄』や『古今著聞集』に克明に記されている、この歌の誕生秘話はまさに宮廷劇のハイライトです。
長元8年(1035年)頃、宮中で盛大な歌合(うたあわせ)が開催されることになり、まだ若手女房であった小式部内侍も歌詠みの一人に抜擢されました。重圧と緊張のなか準備を進める彼女の局(部屋)に、当代きってのプレイボーイであり歌壇の実力者でもあった中納言・藤原定頼(ふじわらのさだより)が立ち寄ります。
定頼は御簾から少し顔をのぞかせ、こう嘲笑交じりに声をかけました。「丹後へ遣わした使者はもう帰ってきましたか? お母上に頼んだ代作の歌は届きましたかな?」。若さゆえに母の代作に頼るだろうと決めつけ、公の場で恥をかかせようとしたのです。
常人であれば動揺して言葉に詰まるか、感情的に怒りをあらわにする場面でしょう。しかし、小式部内侍は違いました。局を立ち去ろうとした定頼の直衣(のうし)の袖をすっと引き留め、ためらうことなく詠みかけたのが「大江山いく野の道の遠ければ…」の一首でした。
予想だにしなかった超ハイレベルな即興の切り返しに、定頼は完全に狼狽。「こは、いかに心得む(これはどう受け止めたらよいのか!)」と叫ぶのが精一杯で、気の利いた返し歌を詠むことすらできず、小式部内侍の引き留める袖を引き放って逃げ去ってしまいました。和歌の世界において「返歌ができない」ことは決定的な敗北を意味します。定頼の軽率なからかいは、一瞬にして自らの赤恥へと塗り替えられたのです。