長年にわたり学校教育の場や健康関連のコラムで掲載されてきた「舌の味覚分布図(味覚マップ)」は、今日では科学的な誤謬(ごびゅう)の代表例として語られています。この図は、1901年にドイツの心理学者ダフィト・ヘーニッヒが発表した「舌の部位によって味覚刺激の閾値(感じやすさの最小値)にわずかな差がある」という実験結果を、1942年に米ハーバード大学の心理学者エドウィン・ボーリングが引用する際、グラフの解釈を誤って誇張したことから世界中に広まってしまいました。
近年の分子生物学および受容体研究により、味を感じる感覚器である味蕾(みらい)は、舌の表面だけでなく上顎の奥(軟口蓋)や喉仏の周辺に至るまで約5,000〜9,000個分布しており、その1つひとつに甘味・塩味・酸味・苦味・うま味の受容体細胞が備わっていることが判明しています。つまり、舌で苦味を感じる部位は「舌全体」であり、舌先でも舌の側面でも苦味はしっかりと知覚されます。
ただし、なぜ「苦味は舌の奥」という体感がこれほど根強く残っているのでしょうか。その生物学的な答えが、舌の根元付近にV字型に並ぶ有郭乳頭(ゆうかくにゅうとう)の存在です。有郭乳頭は他の乳頭組織に比べて味蕾の密集度が極めて高く、苦味受容体(T2Rファミリー)が高感度で反応しやすい特徴を備えています。自然界において「苦味=植物毒や腐敗物質」を意味するため、飲み込む直前の咽頭手前で毒物を瞬時に感知し、誤嚥や嚥下を反射的に吐き出すための「人体最終防衛ライン」として機能しているわけです。