空也上人の経歴は、前半生を中心に深い謎に包まれています。延喜3年(903年)頃に生まれたと伝えられますが、公式な歴史書に幼少期の記録はほとんど残されていません。にもかかわらず、古くから根強く語り継がれてきたのが「醍醐天皇の皇子(落胤)説」です。
空也の没後まもなく天台宗の僧・源為憲が記した追悼文『空也誄(くうやるい)』には、「上人は自らその出自を語ることはなかったが、ある人は『醍醐の帝の皇胤なり』と言う」と明記されています。身元を隠して尾張の国分寺で私度僧(非公認の僧)として出家したこと、身分を捨てて諸国の鉱山や危険な難所を巡り、道路を開削し橋を架けて民衆のために尽くしたことなど、その振る舞いには高貴な身分を自ら捨て去った者のストイックな覚悟が漂っています。
当時の平安京は、権力闘争に明け暮れる貴族たちの都であると同時に、飢饉、大火、そして疫病が頻発する絶望の街でもありました。山奥の大寺院に籠もり、貴族の現世利益ばかりを祈祷していた既成仏教の僧たちとは対照的に、空也は単身で京の路地裏へと飛び込んでいきました。汚泥にまみれた市井で鉦を叩きながら念仏を広めたことから、人々は畏敬を込めて彼を「市聖(いちのひじり)」あるいは「阿弥陀聖(あみだのひじり)」と呼んだのです。