菅原文太の若い頃はパリコレ級?モデル時代と伝説の軌跡を完全検証

菅原文太の若い頃はパリコレ級?モデル時代と伝説の軌跡を完全検証

菅原文太の若い頃はパリコレ級?モデル時代と伝説の軌跡を完全検証についての疑問解決ガイドをお届けします。

菅原文太の生い立ちを紐解くと、その後の波乱に満ちた人生の萌芽が見て取れます。1933年(昭和8年)、宮城県仙台市に生まれた菅原は、洋画家であった父親の影響を受け、幼少期から独特の美意識や感性を育まれて育ちました。地元屈指の進学校である宮城県仙台第一高等学校を卒業した秀才であり、上京後は名門・早稲田大学第二法学部へと進学を果たします。

将来を嘱望された法学部生でありながら、なぜ彼は大学を中退するに至ったのか。巷角では「役者になるために自ら大学を捨てた」という美談として語られることも少なくありませんが、関係者の証言や当時の取材資料によると、実態はより生々しい現実が絡んでいました。最大の要因は、経済的な困窮による授業料の滞納と除籍処分でした。戦後の混乱が色濃く残る東京で学生生活を送る中、実家からの仕送りに頼れなくなった菅原は、日々の生活費と学費を稼ぐために様々なアルバイトに奔走します。その過程でスカウトを受け、生活のために始めたのがモデルの仕事でした。

除籍という挫折を味わいながらも、モデルとしての類いまれなプロポーションと精悍なルックスは、すぐに映画界のスカウトマンの目に留まります。1958年、当時新進気鋭の映画会社であった新東宝に第4期ニューフェイスとして入社。同年の映画『白線秘密地帯』で鮮烈なスクリーンデビューを飾りました。デビュー当時の菅原文太は、宇津井健や吉田輝雄らとともに甘いマスクの現代劇スターとして売り出され、爽やかな二枚目役を次々と演じていきます。しかし、本人の内面には「型にはめられた軟弱な二枚目像」に対する強い違和感と葛藤が渦巻いていました。

山本 拓海
著者

山本 拓海

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。