プロ野球ファンを中心に「ノムさんの名言」として定着しているこの言葉ですが、原典を辿ると江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山(まつら せいざん/松浦清)が残した随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に到達します。
松浦静山は政治家として財政改革に手腕を振るった名君であると同時に、剣術「心形刀流(しんぎょうとうりゅう)」の達人としても知られた人物でした。『甲子夜話』第34巻の記述において、静山は武芸の極意として次のように記しています。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
剣を交える真剣勝負において、技術や体勢が未熟であっても、相手のふとした油断や足場の悪さ、風向きといった外的な要因が重なり、偶然勝ってしまう事態は起こり得ます。しかし、斬られて倒れる側には、間合いの見誤り、防御の遅れ、集中力の欠如など、命を落とすに足る明確な落ち度が必ず存在するという戒めです。
野村克也氏は現役時代、そしてヤクルトスワローズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスで指揮を執る中で、この静山の言葉と出会い、深く感銘を受けました。自著や当時の特番インタビューにおいて、野村氏は「南海ホークス時代に無学だった自分を恥じ、読書を通じて人間教育を模索する中で巡り合った言葉だった」と述懐しています。弱者が強者に打ち勝つための戦略論として、この古の武士道哲学を現代スポーツに翻訳したのが、いわゆる「野村ID野球」の出発点でした。