「弁天様にお参りしたカップルは別れる」——この話は、江の島(神奈川県)、上野不忍池(東京都)、井の頭公園(東京都)など、水辺に弁天様を祀る全国の著名スポットで今も囁かれています。「女神だから美しい女性や仲睦まじい男女に嫉妬する」という説明が一般的にまことしやかに語られますが、宗教学や民俗学の見地から見れば、これは完全な事実誤認であり俗説です。
仏教の天部神や神道の神仏が、人間の矮小な色恋沙汰に対して個人的な嫉妬心を抱き、罰を与えるといった教理は一切存在しません。ではなぜ、このような噂が全国各地で定着したのでしょうか。その背景には、江戸時代の交通事情と社会風俗が深く関わっています。
当時、江戸庶民にとって江の島や上野への参詣は、現代でいう一大レジャーでした。特に江の島への旅は「江の島詣」と呼ばれ、表向きは信仰の旅でありながら、道中には宿場町や花街(歓楽街)が隣接していました。妻や恋人を同伴されると男性たちが羽目を外して遊べないため、「弁天様が嫉妬するから女性を連れて行ってはならない」という方便を口実として広めたのが真相の一つとされています。
また、池のボート遊びなどで知られる現代の都市型公園においても、デートスポットとして訪れる絶対数が多いため、統計的に「訪れた後に破局するカップル」の母数が目立ってしまうという認知バイアスが働いています。神仏が嫉妬して仲を裂くのではなく、むしろ執着や悪縁を断ち切り、自立した個人として正しい人生を歩ませる「自立の契機」として捉えるのが、本来の信仰の姿勢に合致しています。