当時の大名戦において、数万の軍勢を率いる総大将自身が乱戦の中で討ち取られる事例は極めて異例です。なぜ龍造寺隆信はその命を落とすことになったのでしょうか。
史料『歴代鎮西要略』や島津側の記録によると、晩年の隆信は酒色に溺れて極度の肥満体となり、当日は馬に乗ることができず白木の駕籠(かご)に乗って前線で指揮を執っていたと伝えられています。最側近の重臣・鍋島直茂は出陣前から島津軍の伏兵を警戒し、慎重な行軍と撤退を進言していましたが、過信を深めていた隆信はその忠告を一蹴して進軍を強行しました。
前衛が崩壊して島津の伏兵が本陣へ雪崩れ込んできた際、駕籠を担いでいた従者たちはパニックを起こして逃亡。置き去りにされた隆信の周囲にはわずかな護衛しか残っていませんでした。そこに突入してきた島津軍の武将・川上忠智(忠堅)が名乗りを上げて組み付き、隆信の首級を挙げたと記録されています。
享年56。智勇兼備と恐れられた戦国大名は、自らの慢心と過小評価が生み出した戦術的トラップの中で非業の最期を遂げました。