法令が施行されていた当時、江戸の民衆はどのような生活を送っていたのでしょうか。外部の視点から当時の日本を客観的に観察した貴重な証言として、ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが著した『江戸参府旅行記』が挙げられます。
ケンペルは1690年代の江戸の様子について、「市中には驚くほど多くの犬が自由に歩き回っており、人々は犬に敬意を払い、餌を与えている。犬の喧嘩を止めるために水をかける光景が見られる」と記録しています。ケンペル自身はその異様な光景に困惑しつつも、治安が極めて良好で、暴力や殺傷事件が他国に比べて極端に少ない平和な社会であることに感嘆の意を示しています。
一方で、町民たちにとって負担がゼロだったわけではありません。飼い犬の登録制度や怪我をした犬の届出義務は、官僚主義的な煩雑さをもたらしました。「犬喧嘩を止めに入って自分が怪我をした」「犬が怪我をしたら役人の取り調べを受けなければならず面倒だ」といった町人の愚痴や皮肉が川柳として多く残されているのも事実です。
しかし、それは「理不尽な死刑に怯える恐怖政治」ではなく、「現代の過剰な行政規制に対する市民のボヤキ」に近い質感であったことが、当時の町触れや日記の記述から窺えます。