謀反の一報に驚愕した播磨の盟友・黒田官兵衛(当時は小寺孝高)は、村重を説得して織田方に引き戻すべく、単身で有岡城へ乗り込みました。しかし、村重は官兵衛の忠告を聞き入れることなく捕縛し、城内の狭隘な土牢に監禁します。ここから約1年(天正6年10月から天正7年10月まで)におよぶ官兵衛の過酷な幽閉生活が始まりました。
なぜ村重は、信長の使者である官兵衛を即座に処刑しなかったのでしょうか。そこには高度な外交力学と人間関係が作用していました。官兵衛の主君である小寺政職もまた信長への離反を画策しており、官兵衛は毛利や小寺に対する極めて有効な「生きた人質」だったのです。また、村重自身が官兵衛の知略を惜しみ、情勢が好転した暁には味方に引き入れようとしていた形跡もうかがえます。
じめじめとした陽の射さない土牢の中で、官兵衛は膝の関節が変形して歩行が困難になり、頭髪が抜けるほどの極限状態に追い込まれました。後に有岡城が落城した際、栗山善助ら黒田家の家臣たちによって奇跡的に救出されますが、この1年間の幽閉体験は、天才軍師・黒田官兵衛のその後の冷徹なプラグマティズムを形成する決定的な転機となりました。