あの日、国技館を包み込んだ異様な静寂と怒号のような歓声を、当時の現場を知る者は忘れることができない。平成13年5月場所の千秋楽、満身創痍の状態で土俵に上がった貴乃花が見せた「鬼の形相」は、今なお語り継がれる伝説の一幕だ。しかし、その対戦相手であった武蔵丸がどのような覚悟で土俵に上がっていたのかは、長らく多くを語られてこなかった。
最新の独自取材に応じた当時の付け人や関係者の証言によると、武蔵丸は支度部屋で「怪我をした相手と戦うやりづらさ」を一切口にしなかったという。むしろ「横綱として全力で叩き潰すことこそが、貴乃花への唯一の礼儀だ」と静かに腹を括っていた。土俵下で対峙した瞬間、両者が放つ異様な圧迫感は、審判団すら息を呑むほどだったと振り返る。表舞台の華々しさの陰で、限界を超えた二人の男が繰り広げていた真剣勝負の裏側には、美談だけでは片付けられないプロの凄味が隠されていた。