歴史の転換点を理解する上で欠かせないのが、国会期成同盟と愛国社の違いです。愛国社は1875年(明治8年)に板垣退助らを中心に大阪で結成されたものの、指導者の下野や士族たちの意見対立によって一度は自然消滅に近い状態に追い込まれました。その後、1877年の西南戦争によって「武力による反政府運動」が完全に不可能な選択肢となった現実を受け、1878年に再興されます。しかし、初期の愛国社は依然として不平士族の救済や地方結社の緩やかなネットワークという性格を脱し切れていませんでした。
その限界を打ち破ったのが、1880年(明治13年)3月15日に大阪の喜多福亭で幕を開けた第4回愛国社大会でした。全国各地から予想を遥かに超える代表者が殺到し、会場の手狭さから3月17日には大阪市北区の太融寺(たいゆうじ)へと本拠を移転。4月9日まで連日連夜にわたって白熱した議論が交わされたと、当時の記録文書や寺院の伝承は生々しく伝えています。参加地域は2府22県、愛国社系にとどまらない各地の政治結社代表ら114名が結集しました。
ここで決議された最大の改革こそが、地方士族の集まりから「全国民の国会開設要求を一本化する恒久組織」への脱皮でした。こうして改称・誕生したのが国会期成同盟です。結成理由は極めて明確でした。個別の士族反乱ではなく、地租改正に苦しむ豪農や都市の知識人までをも巻き込んだ「国民的世論の統一プラットフォーム」を構築しなければ、強固な藩閥政府の壁は破れないと確信したからです。歴史の年号としては「いっぱれ(1880年)国会期成同盟」と語呂合わせで覚えられるこの出来事は、単なる看板の掛け替えではなく、日本の民衆運動が近代的な国民組織へと質的転換を遂げた決定的瞬間でした。