なぜ世界的な名声を得ていた洋画家が、泥沼の戦争画にこれほど執念を燃やしたのか。その背景には、藤田嗣治 経歴と代表作に刻まれた激動のアイデンティティの葛藤が存在します。
1886年、東京に陸軍軍医の高級将校の息子として生まれた藤田は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、1913年に単身パリへ渡りました。1920年代のエコール・ド・パリ全盛期、藤田は日本画の面相筆と墨、そして独自の門外不出の技法による「乳白色の肌」を生み出し、『寝室の裸婦キキ』などの傑作で一世を風靡します。当時のパリ画壇でピカソやモディリアーニと肩を並べ、巨万の富と名声を手にした東洋人は藤田ただ一人でした。
しかし、1930年代に祖国へ帰還した藤田を迎えたのは、日本の洋画壇の冷淡な嫉妬と排他性でした。外来の異端児として疎外された藤田にとって、日中戦争から太平洋戦争へと突き進む国家の非常事態は、自らの筆を祖国のために捧げ、日本美術界に揺るぎない金字塔を打ち立てるための「グランド・マニエール(大様式の歴史画)」への挑戦でもあったのです。これこそが、藤田嗣治 戦争画 理由の根底にある画家としての巨大な野心でした。