なぜ貫前神社は、わざわざ階段を下った低地に社殿を構えたのでしょうか。社伝および郷土史の調査、地形分析から、主に3つの有力な仮説が導き出されています。
1. 古代の谷戸・湧水信仰を起源とする「地形的必然説」
社殿が位置する窪地は、蓬莱山(ほうらいさん)と呼ばれる丘陵の北斜面に切れ込んだ谷状の地形(谷戸)です。縄文時代から古墳時代にかけて、低地の湧水地や洞穴、特異な岩石は「神の依代(よりしろ)」として神聖視されていました。貫前神社の社殿が置かれた場所こそが、古代人にとって最も神聖な祭祀場そのものであり、後世に敷地を造成する際も、原初の聖域の位置を変更できなかったと考えられています。
2. 養蚕・機織りの神「姫大神」と水・湿度の関係
貫前神社の二大祭神の一柱である「比売大神(ひめおおかみ)」は、古代の渡来系技術集団がもたらした養蚕・機織り・染織を司る神とされています。生糸を紡ぎ、布を織る作業には適度な湿度と清らかな水が欠かせません。乾燥しやすい丘の上ではなく、湿度が保たれ湧水に恵まれた谷底の地こそが、機織りの神を祀る場として最適であったという見解です。
3. 物部氏の武神「経津主神」勧請による重層的配置
もう一柱の主祭神である「経津主神(ふつぬしのかみ)」は、国家鎮護・武運を司る強力な武神です。大和朝廷の東国平定に伴い、在地の機織り神が祀られていた聖域(谷底)の上に、朝廷側の武神を迎え入れた結果、高台に入口を設け、低地にある本殿へと下っていく重層的な境内構成が完成したという歴史社会学的な分析も有力視されています。