第32軍の首脳陣は、極めて対照的な性格を持つ3名で構成されていました。温厚篤実で人格者として全軍をまとめる牛島満、情熱的で攻撃精神を信奉する長勇、そして理路整然と勝算のない突撃を嫌う八原博通です。
この首脳陣の間で最大の悲劇を生んだのが、1945年5月4日に決行された「総反撃作戦」でした。嘉数周辺で米軍の進撃を食い止めていたものの、東京の大本営や連合艦隊からは「なぜ攻勢に出ないのか」「特攻機と呼応して敵を海へ叩き落とせ」という強烈な督促が届き続けていました。参謀長の長勇もまた、「地下に潜んで死を待つより、華々しく打って出るべきだ」と総反撃を主張しました。
八原は作戦会議で猛然と反対しました。「米軍の制空権・制海権下で平地に飛び出せば、わが軍の精鋭は一瞬で鉄量の前に蒸発する。持久戦こそが沖縄戦の唯一の存在価値である」と涙ながらに説いたものの、長勇の勢いと「軍の士気」を重んじた牛島司令官の決断により、総攻撃が下令されてしまいます。
結果は八原の予測通りでした。洞窟陣地を出た日本軍部隊は米軍の猛烈な艦砲射撃と近接航空支援の餌食となり、第24師団主力や貴重な砲兵部隊、戦車連隊など軍戦力の過半と大半の弾薬をわずか2日間で喪失。日本軍の組織的防衛力はこの無謀な反撃によって致命的な打撃を受け、持久期間を大きく縮める結果となったのです。手記において八原は、この総攻撃の失敗を「痛恨事」として極めて厳しく断罪しています。