昭和後期から平成にかけて、全国の建築ファンや文化人から「都市の貴重な近代化遺産として保存すべきだ」という熱烈な声が上がっていました。にもかかわらず、なぜすべての同潤会アパートは解体され、建て替えられることになったのでしょうか。その背景には、美談だけでは片付けられない過酷な現実的諸問題が存在していました。
1. 深刻な構造的老朽化と耐震基準の壁
大正から昭和初期のコンクリート施工技術は現代と比べて未熟であり、年月の経過とともに鉄筋の腐食やコンクリートの中性化・剥落が進行していました。さらに、1981年に施行された「新耐震基準」を満たしておらず、巨大地震が発生した際の倒壊リスクが専門家から厳しく指摘されていました。配管設備もコンクリート壁に埋め込まれていたため、全面的な更新工事が物理的に困難だったのです。
2. 現代生活とのミスマッチ(狭小間取りとバリアフリーの欠如)
建設当時は最先端だった住戸も、半世紀以上が経過すると手狭さが際立つようになりました。単身者向けはわずか4畳半から6畳一間、ファミリー向けでも2Kや3Kが中心で、風呂なし住戸も多く存在しました。エレベーターのない低層棟では、住民の高齢化に伴って「階段の上り下りができず外出できない」という深刻な生活障害が起きていました。
3. 複雑化した権利関係と合意形成の難航
戦後、同潤会アパートの住戸は居住者に払い下げられ、区分所有建物となっていました。建て替えの経緯においては、保存を望む文化人・外部の建築家と、「雨漏りや隙間風に耐え、今すぐ安全で快適な住まいに暮らしたい」と願う高齢の住民たちとの間に深い温度差が生じました。住民の合意形成にはどの地区でも10年〜20年以上の歳月を要し、最終的にはデベロッパーの参入と容積率緩和を活用した再開発事業として決着を見たのです。
青山アパートメントの建て替えでは、建築家の安藤忠雄氏が設計を担当しました。「表参道のケヤキ並木の高さを超えない」という厳しい高さ制限を課し、建物の大半を地下に埋め込む手法を採用。並木道の景観を守りつつ、敷地の一角に外観を精密に再現した「同潤館」を建てることで、歴史的記憶を未来へ継承する道を選びました。