競べ弓が単なるスポーツではなかった証拠は、当時の記録や古典文学の生々しい描写から克明に読み解くことができます。その最たる例が、歴史物語『大鏡』に記された藤原道長と藤原伊周(これちか)の競べ弓です。
長徳元年(995年)、関白・藤原道隆の邸宅(南院)で開かれた競べ弓。道隆の長男であり、若くして内大臣に上り詰めていた伊周に対し、まだ叔父の立場に過ぎなかった道長が挑みました。序盤、伊周が優勢に進める中、道長は次のように言い放ち矢を放ちます。
「道長が家より、御門(みかど)・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ」
(我が家系から天皇や皇后が出る運命にあるならば、この矢よ当たれ)
放たれた矢は見事に的の真ん中を射抜きました。続く2本目でも道長は「摂政・関白すべきものならば当たれ」と宣誓して中ててみせます。一方、プレッシャーに呑まれた伊周は手が震え、矢はあらぬ方向へ外れてしまいました。父親の道隆は顔色を失い、「もう射るな、やめよ」と勝負を中断させたといいます。
また、『源氏物語』の「螢」の巻などでも、五月雨の季節に貴族たちが集い、競べ弓に興じる風雅な情景が描かれています。古典文学における競べ弓は、登場人物の胆力、野心、そして隠された人間関係のパワーバランスを浮き彫りにする決定的な演出装置として機能していたのです。