鯉登音之進という男の半生を紐解く上で、避けて通れないのが直属の上官である鶴見中尉への異常なまでの心酔だ。ブロマイドを胸に忍ばせ、鶴見の前では興奮のあまり早口の薩摩弁しか喋れなくなる姿は、物語初期の彼を象徴するコミカルな一面でもあった。
しかし、その盲目的な忠誠心の裏には、少年時代に起きた「満州での誘拐事件」という重厚な過去が隠されている。命の恩人として彗星のごとく現れた鶴見への絶対的信奉。だが物語中盤以降、その救出劇こそが企てられた狂言であった可能性が浮上する。信頼する父親への思いと心酔する上官への疑念のはざまで揺れ動く少尉の葛藤は、本作屈指の濃密な人間ドラマであり、散りばめられた伏線回収の鮮やかさは読者の間で語り草となっている。