ネット上の歴史議論では、「松前藩はずっと平和に利権を貪り、幕末の戊辰戦争では日和見を決め込んで旧幕府軍に呆気なく敗れた」といった短絡的な見解が散見されます。しかし、史実の実態は遥かに複雑で過酷なものでした。
18世紀末、ロシア使節ラクスマンの根室来航などを機にロシアの脅威が現実化すると、江戸幕府は寛政11年(1799年)から享和2年(1802年)にかけて蝦夷地を直轄化しました。これが第一次幕領期であり、箱館奉行が設置された発端です。松前藩は本領を没収され、陸奥国梁川(現在の福島県伊達市)へと領地替えを命じられました。石高9千石の寒村へ追いやられた松前家は、財政破綻の極限状態に追い込まれ、家臣たちは塗炭の苦しみを味わいました。文政4年(1821年)に蝦夷地へ復領を許されるまでの約20年間は、幕府の都合に翻弄された暗黒時代でした。
さらに激動を極めたのが戊辰戦争です。当時の松前藩内は、佐幕派の重臣たちと、尊王派の青年武士集団「正義隊」が激しく対立するクーデター状態にありました。正義隊が実権を握り新政府軍側に与することを決定した直後、榎本武揚や土方歳三率いる旧幕府脱走軍が蝦夷地に上陸します。
旧幕府軍の猛攻を受け、海防のために築城されたばかりの松前城(福山城)は、土方歳三らの巧みな背面攻撃によってわずか数時間で落城しました。藩主・松前徳広一行は北の館城(厚沢部町)へ逃亡し、さらに青森へと命からがら脱出。厳冬の津軽海峡を越える逃避行の中で、若き藩主・徳広は肺結核を悪化させ、25歳の若さで非業の死を遂げました。「無抵抗で逃げ出した」という言説は全くの誤解であり、藩内分裂と最新鋭兵器を備えた脱走軍の電撃戦に挟撃された悲壮な敗走劇だったのです。