原田雅彦というアスリートを語る上で避けて通れないのが、1994年リレハンメル五輪での失速と、そこから4年後の1998年長野五輪での劇的な復活劇です。この2つの大会で見せたドラマは、スポーツ心理学や組織論の観点からも数多くの研究対象となってきました。
リレハンメル五輪の団体戦、日本は2位のドイツに大差をつけ、金メダル獲得は確実視されていました。最終ジャンパーの原田氏が普通に飛べば優勝が決まるという極限の状況。しかし、放たれたジャンプは97.5メートルとまさかの大失速に終わります。日本は銀メダルに後退し、帰国した原田氏を待っていたのは「戦犯」としての苛烈なメディアスクラムと国民からの凄まじいバッシングでした。リレハンメル失速の真相について、当時の気象データや本人の手記を検証すると、追い風への急変という不運に加え、「失敗してはならない」という重圧による助走姿勢の微細な硬直がジャンプの踏切タイミングをわずか100分の数秒狂わせたことが判明しています。
しかし、原田氏は逃げませんでした。過酷な批判に晒されながらもトレードマークの笑顔を絶やさず、基礎からジャンプを見つめ直しました。そして迎えた地元開催の1998年長野五輪。スキージャンプ団体戦(岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)の1本目、原田氏は猛吹雪の中で79.5メートルと再び失速。チームは4位に転落し、悪夢の再来が脳裏をよぎる絶体絶命の危機に陥りました。
その暗雲を打ち払ったのが、2本目のジャンプでした。悪天候が奇跡的に回復する中、原田氏は計測不能となる137メートルの大バッケンレコード(当時の五輪記録)を叩き出します。そしてアンカーの船木選手が大ジャンプを放ち着地した瞬間、雪の中に顔を埋め、涙と鼻水を流しながら叫んだ言葉が、いまや国民的記憶となったスキージャンプ原田の名言「ふなき〜、ふなきぃ〜」でした。恐怖とプレッシャーに押し潰されそうになりながらも掴み取った長野オリンピック スキージャンプ団体 金メダルは、日本五輪史に刻まれる不滅のハイライトとなっています。