強固な信頼関係で結ばれていたはずの美能幸三と親分・山村辰雄の関係は、やがて最悪の形で破綻を迎えます。山村組との対立理由の根底にあったのは、戦後復興に伴う莫大な利権の配分と、山村組長による狡猾な「子分操縦術」でした。山村は若手の実力者同士を競わせ、互いに反目させて自らの権力を維持する手法を常套手段としていたためです。
1950年代初頭から火の手が上がった第一次広島抗争の経緯は、呉の土着組織である土岡組との血みどろの衝突から始まりました。美能は山村のために最前線で命を懸け、相手幹部を射殺して服役することになります。しかし、美能が刑務所に収監されている間に、山村は美能派の縄張りを侵食し、約束されていた支援を反故にしました。この背信行為を知った美能は激怒し、服役中から山村との絶縁を決意。出所後の昭和38年(1963年)、美能は山村組を脱退して「美能組」を結成し、かつての親分に公然と弓を引く泥沼の戦争へと突入しました。