これほど日本側に歩み寄った報告書であったにもかかわらず、なぜ日本政府と世論はこの妥協案を完全に跳ね除けてしまったのでしょうか。その決定打となったのは、「満州国の不承認」という一点にありました。
調査団が報告書を執筆中だった1932年9月15日、日本政府は国際社会の自制の呼びかけを完全に無視し、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を執政に据えた「満州国」との間で日満議定書を調印し、満州国を正式に承認してしまっていたのです。首相の犬養毅が5・15事件で暗殺された後、後継となった斎藤実内閣の内相兼外相・内田康哉は、帝国議会で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」とするいわゆる「焦土外交演説」をぶち上げ、強硬姿勢を崩しませんでした。
関東軍と日本政府にとって、満州国を国際的管理下に置くリットンの提案は「苦労して手に入れた完全な傀儡国家を手放すこと」を意味し、到底受け入れられるものではありませんでした。満州事変の開始から満州国建国へと突き進む中で、陸軍の軍事作戦は国民的な熱狂に包まれており、もはや一歩でも後退すれば軍部も政府も国内世論の怒りによって崩壊しかねない心理的トラップに陥っていたのです。