日本史における釜茹での刑の象徴といえば、文禄3年(1594年)に京都三条河原で処刑された大盗賊・石川五右衛門です。時の最高権力者であった豊臣秀吉の暗殺未遂、あるいは伏見城の宝物を狙った罪で捕らえられたと伝えられています。
公家の日記や当時のイエズス会宣教師が残した記録『日本諸国記』などによると、五右衛門だけでなく、彼の一族や配下を含めた数十名が一斉に処刑場へ引き立てられました。五右衛門は巨大な油釜へ生きたまま放り込まれ、凄惨な最期を遂げたと記されています。歌舞伎の演目『楼門五三桐』などで描かれる「我が子を頭上に掲げて少しでも生き延びさせようとした」という感動的な逸話は後世の創作・伝説の色彩が強いものの、一族郎党がことごとく処刑された記録は歴史的事実として一致しています。
秀吉がこれほど苛烈な処刑方法を選択した背景には、自らの権威を誇示し、治安を乱す者や政権に刃向かう者への徹底的な威嚇を行う政治的意図が存在していました。三条河原は京の町衆が多数行き交う交通の要所であり、公開処刑の場として選ばれたこと自体が計算し尽くされた統治戦略だったのです。