近代的なビジョンを掲げながらも、田沼意次の改革は最終的に挫折を余儀なくされました。その背景には、個人の失政という枠組みを超えた構造的トラブルと不運が重なっていました。
第一の要因は、未曾有の自然災害と「天明の大飢饉」です。
1783年(天明3年)の浅間山大噴火を契機に、全国規模で冷害と降灰による大凶作が発生。東北地方を中心に数十万人規模の餓死者を出す「天明の大飢饉」へと発展しました。米価は高騰し、江戸や大坂などの主要都市では打ちこわしが頻発。印旛沼の干拓工事も利根川の氾濫によって水泡に帰しました。農村の疲弊と社会不安の責任は、すべて現職老中である田沼一身に向けられることになります。
第二の要因は、後継者・田沼意知の暗殺事件です。
1784年(天明4年)、意次の長男で若年寄として将来を嘱望されていた田沼意知が、江戸城内で旗本・佐野政言に斬りつけられ急死しました。民衆は佐野を「世直し大明神」と崇め、田沼家に対する憎悪が社会全体で爆発的な域に達していることが白日の下にさらされました。これにより田沼一派の権勢は急速に求心力を失います。
第三の要因は、最大の後ろ盾であった将軍・徳川家治の死去です。
田沼の政治生命は、第10代将軍・家治の絶対的な信任の上に成り立っていました。1786年(天明6年)、家治が病没すると、反田沼派の急先鋒であった一橋治済(ひとつばしはるさだ)や御三家が結託。家治の死からわずか数日後に意次は老中を罷免され、領地没収の上、蟄居を命じられるという非情な幕切れを迎えました。