石舞台古墳の前に立つ者がまず圧倒されるのは、墳丘を覆うはずの土が完全に失われ、巨大な石室がそのまま地上に露出している異様な光景です。一般的な古墳であれば、石室は厚い土で覆われた墳丘の深奥に鎮座しているのが本来の姿。なぜこの古墳だけが、内部を白日のもとに晒すことになったのでしょうか。
長年、巷間において広く信じられてきたのが「大化の改新(乙巳の変)報復説」です。皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺し、父の蝦夷が自害して蘇我本宗家が滅亡した際、朝廷側が蘇我氏の権勢を憎悪し、馬子の墓の封土を掘り起こして石室を暴いたというドラマチックなストーリーです。しかし、奈良県立橿原考古学研究所や過去の発掘記録を丹念に洗い直すと、事態はそう単純ではないことが分かります。
発掘調査による層位学的知見では、古墳周辺の土層から平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけての遺物が多数検出されています。もし7世紀半ばの大化の改新直後に墳丘が大規模に削平されたのであれば、このような時代区分ごとの痕跡形成とは矛盾が生じます。現在の考古学界では、長年の風雨による土砂の自然流出に加え、中世の武士による砦(城郭)への転用、さらには近隣の田畑開拓や近世の土木資材・石材調達のために盛土が削り取られていった「複合的要因説」が決定的となっています。
一方で、石舞台古墳の被葬者の真相についても極めて高い精度で絞り込まれています。『日本書紀』推古天皇34年(626年)5月の条には、大臣・蘇我馬子が薨去した際、「桃原墓(もものへらのはか)」に葬られたとの記録が残されています。石舞台古墳の北西わずか数百メートルの場所には、馬子の邸宅跡と特定された「島庄遺跡(嶋宮)」が位置しており、当時の権力者が自らの館を見下ろす丘陵尾根に墓を築くという古代豪族の慣習と完璧に合致します。一辺約50〜55メートルの方墳、周囲を巡る二重の濠、そして後述する圧倒的な石室のスケールは、当時の天皇をも凌ぐ権勢を誇った馬子の墓と断定するに十分な物的証拠を備えています。