志波城が歴史の表舞台に現れたのは延暦22年(803年)のことです。前年に胆沢城(岩手県奥州市)を築き、蝦夷の指導者・アテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)の降伏を受け入れた坂上田村麻呂は、律令国家の支配領域を北上川流域のさらに北へと広げるため、この地に巨大な城柵を建設しました。
志波城跡は国指定史跡としてその価値を高く評価されていますが、最大の謎として語り継がれてきたのが「なぜこれほどの巨城が、わずか10年余りで放棄されたのか」という点です。その答えを握る決定的な一次史料が、六国史の一つである『日本後紀』に記されています。
弘仁2年(811年)冬から弘仁3年(812年)にかけての条面には、志波城が度重なる河川の氾濫によって水害に見舞われ、兵舎や官舎が浸水被害を受け続けた過酷な実態が記録されています。志波城が立地する盛岡市上鹿妻・下鹿妻エリアは、雫石川と北上川が合流する後背湿地に近接しており、ひとたび大雨が降れば濁流が城内に押し寄せる地理的脆弱性を抱えていました。
さらに見逃せないのが、当時の朝廷を取り巻く軍事政策の転換です。延暦24年(805年)に桓武天皇が下した「徳政相論(とくせいそうろん)」により、国家予算を圧迫していた「軍事」と「造作」の二大国家事業は事実上の中止へと舵を切りました。兵站の維持限界と財政難、そして毎年のように襲いかかる水害の復旧コストを前にして、平城天皇・嵯峨天皇の治世下で合理的な撤退戦が選ばれました。こうして弘仁3年(812年)、志波城は南へ約10キロメートル離れた水害の危険が少ない高台、徳丹城(現・紫波郡矢巾町)へとその機能を全面移転したのです。