美唄とりめしのルーツを紐解くには、大正から昭和初期の美唄市中村地区へと時計の針を戻す必要があります。当時の中村地区は稲作を中心とした開拓農家が多く、各家庭で貴重なタンパク源や採卵用として鶏を庭先で飼育していました。やがて卵を産まなくなった親鶏(廃鶏)は、冠婚葬祭や村の祭り、あるいは田植えや稲刈りといった共同作業(結い=ゆい)の日に、感謝を込めて絞められました。
「命をいただいたからには、骨も皮も内臓も何ひとつ無駄にしてはならない」――。開拓期の困窮と命への敬意から生まれたのが、硬い親鶏の肉を細かく刻み、レバー(肝臓)、砂肝、ハツ(心臓)、キンカン(未成熟卵)といった内臓すべてを余すところなく大鍋で甘辛く煮詰め、米とともに炊き上げる「中村とりめし」の原点でした。
この農村の家庭料理が、美唄の街全体を揺るがす名物へと昇華した背景には、昭和中期に最盛期を迎えた「三井美唄炭鉱」や「三菱美唄炭鉱」に代表される炭鉱産業の爆発的な発展があります。地下数百メートルの暗闇で命がけの重労働に従事する炭鉱夫たち(ヤマの男たち)は、失われた体力を即座に回復させる強烈な塩分と脂質、そして動物性タンパク質を渇望していました。
当時、美唄駅周辺ではすでに「美唄焼き鳥」として、1本の串に鶏もつとタマネギを交互に刺して焼き上げる独自の食文化が定着していました。これと呼応するように、中村地区のとりめしもまた「冷めても鶏油が米をコーティングしてパサつかず、坑内へ持ち込む弁当として極めて優秀である」と鉱員たちの間で評判となり、炭鉱街のソウルフードとして確固たる地位を築き上げたのです。