上野恩賜公園の西郷隆盛像は、彫刻界の巨匠・高村光雲が人間部分を手掛け、宮内省の嘱託彫刻家で動物彫刻の名手であった後藤貞行が犬の制作を担当しました。完成は明治31年(1898年)。この銅像の傍らにいる犬は、公式には西郷の最も愛した「ツン」であると説明されてきました。しかし、ここには美術史・歴史学における決定的な「ねじれ」が存在します。
最大の問題は「性別」と「実物の不在」です。史実における本物のツンは、前田新吉から譲り受けた薩摩犬の牝(メス)でした。ところが、上野の銅像が構想された1890年代後半には、本物のツンはとうに天寿を全うしてこの世を去っていました。写真も残されていないツンの姿をそのまま再現することは物理的に不可能だったのです。
そこで制作陣は、ツンの血統に近い純粋な薩摩犬を探し求めました。その結果、旧薩摩藩士の海津幸好が飼育していた名犬「サワ」という犬を見つけ出し、後藤貞行の画室に連れてきて塑像の生体モデルにしたのです。そして、このモデル犬「サワ」の性別は雄(オス)でした。
つまり、上野公園の西郷隆盛像が連れている犬は、「名前は雌犬のツンだが、肉体構造と骨格は雄犬のサワ」という奇妙なハイブリッドなのです。実際に現地で銅像の下半身を観察すると、雄犬特有の体躯や筋骨のたくましさが忠実に刻まれており、後藤貞行がサワの肉体をいかに写実的に模写したかが分かります。
さらに犬種的な特徴にもズレが生じています。本来の純血薩摩犬は、ピンと直立した三角形の立ち耳と、背中に巻いた差し尾が最大の特徴です。しかし、上野の銅像の犬は、耳の先端がわずかに折れ曲がった「半垂れ耳」のような形状をしています。これには「モデルとなったサワがやや垂れ耳だった説」や「後藤貞行が軍馬の彫刻を得意としていたため、洋犬の血が混ざった当時の過渡期の猟犬をそのまま造形してしまった説」など、彫刻研究者の間でも議論が続いています。