クレオパトラや楊貴妃と比べ、小野小町の人物像は群を抜いて謎に満ちています。全国各地の小野小町像や浮世絵を眺めてみると、ある奇妙な共通点に気付きます。「小野小町を描いた絵画のほとんどが、後ろ姿か、扇や几帳で顔を隠した横顔」なのです。
なぜ正面の肖像画が存在しないのか
小野小町が生きた平安時代初期(9世紀中頃)、女性貴族が男性や公の場に直接素顔を晒すことはタブーでした。彼女たちが日常を過ごす部屋には几帳(きちょう)や御簾(みす)が垂らされ、男性との逢瀬も闇夜の中で行われるのが常でした。そのため、同時代に描かれた写実的な肖像画は一切残されていません。
さらに、彼女の美しさを具体的に描写した同時代の文献も存在しないのです。『古今和歌集』仮名序において、紀貫之は小野小町の和歌を次のように評しています。
「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり」
ここで評されているのは、あくまで彼女が詠んだ和歌の情趣(切なく艶やかで、弱々しく物憂げな風情)であり、容姿そのものへの言及ではありません。しかし、「衣通姫(あまりの美しさに光が衣を通して輝いたとされる伝説の美女)」の系譜という文学的賛辞が独り歩きし、平安末期から中世にかけて「和歌がこれほど優美なのだから、本人の美貌も天下一品だったに違いない」というイメージの飛躍が生じたのです。
「百夜通い」の残酷と、能楽が生んだ「卒塔婆小町」の呪縛
中世以降、小野小町の伝説は「絶世の美女」から一転して「残酷な転落劇」へと変貌を遂げます。その代表格が、深草少将の「百夜通い(ももよがよい)」伝説です。
小野小町に求婚した深草少将に対し、小町は「私の元へ百日通い詰めたら契りを結びましょう」と過酷な条件を課します。少将は雨の日も雪の日も通い続けましたが、あと1日で満願となる九十九日目の猛吹雪の夜、凍死してしまいます。この伝説によって、小町は「男の誠意を踏みにじった冷酷な高嶺の花」という影のイメージを背負うことになります。
室町時代に観阿弥・世阿弥らによって大成された能楽では、この業(ごう)の報いとして、晩年の小野小町が徹底的に残酷に描かれます。『卒塔婆小町』や『通小町』において、かつての栄華を失った小町は、
- 髪は白髪の乱れ髪となり、垢にまみれたぼろ布を纏う
- 路傍の卒塔婆に腰掛けて物乞いをする老残の狂女
- 死後は野に打ち捨てられ、髑髏(どくろ)の目の穴からススキが生えて風に鳴る
という、凄惨を極める「乞食伝説」へと仕立て上げられました。「驕れる美女の無残な老い」を見せつけることで、仏教的な諸行無常と因果応報を民衆に説くための格好の教材にされてしまったのです。日本人が思い描く小野小町像は、純粋な歴史的事実ではなく、男性中心社会が作り上げた「美への憧れと、思い通りにならない美女への処罰感情」が入り混じった複合体であると言えます。