巷で広がる「ベトナム人はシンチャオを使わない」という言説は、言語学的に見れば半分正しく、半分は誤解を含んでいます。結論から言えば、シンチャオという言葉自体は公の場で日常的に存在していますが、日常の生きた対人コミュニケーションでは意図的に使い分けられています。
まず押さえておきたいのが、語彙の構造的な意味です。ベトナム語の「Xin(シン)」は「乞う」「願う」を意味し、他者に対して改まった敬意や要請を示す補助詞です。一方の「chào(チャオ)」は「挨拶する」という動詞にあたります。つまり、シンチャオの意味を直訳すると「謹んでご挨拶申し上げます」というニュアンスに極めて近く、日本語で言えば初対面の相手に対する「拝啓」やビジネス文書の「お世話になっております」に近い距離感を持ちます。
ハノイ在住10年を超える日本人特派員や現地語学教育関係者の証言によると、ベトナム人が「Xin chào」を口にするのは以下のようなごく限られたシチュエーションに限定されています。
- テレビのアナウンサーが不特定多数の視聴者に向けて発するオープニングの挨拶
- 高級ホテル、空港カウンター、日系企業の受付スタッフが外国人客を迎える際の定型アナウンス
- 相手の年齢、性別、社会的地位が一切不明で、失礼を避けるためにあえて距離を置く初対面の場面
- 大勢の聴衆を前にしたセミナーやスピーチの冒頭
このように、シンチャオは「不特定多数に向けたフォーマルな挨拶」としての役割を担っています。そのため、すでに顔見知りの同僚や、親交を深めたい友人、頻繁に通うローカルカフェの店員に対して「シンチャオ!」と声をかけると、現地の人の耳には「他人行儀で、あえて壁を作られているような冷たさ」として響いてしまいます。これが、ネット上で「現地ではシンチャオを使わない」と極端に語られる真相です。